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デザイン思考で新規事業の創出を支援するコンセプトデザイナー
株式会社ロノフデザイン 臼木幸一郎 - MOVの100人インタビュー

photo by Yusukeomata
--まずは簡単な自己紹介をお願いします。
株式会社ロノフデザインの臼木幸一郎(うすき・こういちろう)と申します。弊社は、主に通信や電機業界の企業各社に対して、コンサルティングやデザイン関係のサービスを提供しています。
コンサルティングといっても、一般的な経営コンサルティングとは多少異なります。企業が新たな市場を開拓したり事業を創出しようとする際、デザイン思考を用いた斬新な切り口や仮説立案で可能性を拡げ、それを具現化する新製品や新サービスのデザイン、業界や業種を横断した業務提携の支援まで、経営に創造力を提供するのが弊社の事業です。
--デザイン思考を用いた仕事の流れについて教えてください

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例えば、未来社会の需要を見込んで研究開発を進めている新しい技術があったとします。しかし、何かの理由で突然行き詰まってしまうということが時折起きます。経営側としては、中断するよりも新たな用途を見つけ出して、これまでの投資の回収を図りたい訳ですが、自社内では発想の転換が小幅に留まりがちで、再び困難に直面する場合が多くあります。
保有技術に従来と異なる活用法を与え応用することを「用途開発」といいます。用途開発では、発散的な思考で大胆に応用可能性を拡げ、それぞれのアイディアが実現した未来像を視覚的に表現します。上位のアイディアはさらに解像度を上げて、製品化やサービス化された状態を想定して実際にデザインやプロトタイピングを行います。こうして完成したものは、営業ツールとして想定顧客や連携企業で商談に用いられるのです。
技術をザックリと理解した上で、その業界や組織に属さない立場で俯瞰的に眺め、自由かつ純粋な目で「こうすれば良いのではないか」と提案し、その一つひとつを具体的なカタチに置き換えていく、それが私の役割です。そこから先の過程は、私の手元を離れます。創造力よりも組織力が生きる通常のラインに載るからです。デザインと呼ばれる仕事の多くが、モノづくりの製造や普及の段階で発生するのに対して、モノづくりの原点を担うのがコンセプトデザイナーです。
--キャリアの原点と独立について教えてください

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1991年、最初は小さなデザイン会社に就職しました。そこには日本の情報通信機器業界で最も影響力のあったメーカーのデザインのトップが頻繁に訪れており、当時技術革新の象徴だった携帯電話と、人々が移動しながら通信を行うという未来社会、その両面から企画・デザインに携わることができました。
偶然にも、1991年という年に、情報通信機器業界向けにキャリアをスタートしたことは、いま振り返ってみても、とてもラッキーなことだったと思います。当時はスマートフォン(2007年〜)が誕生する以前の時代ですが、従来の自動車電話やショルダーフォンに代わり、急速に小型・軽量化した「mova(ムーバ)」が発売された年で、同年に日本経済のバブル景気が終了したとはいえ、世界の頂点にいるような高揚感がありました。
1998年に初めてフリーランスのデザイナーとして独立しました。前述のメーカーの方が、「これからは、SOHOの時代」と書かれた新聞記事の切り抜きを持って来たのがきっかけでした。就職した当初はマーカーでデザイン画を手描きしていましたが、その頃は会社にあるブラウン管のMacintoshで仕事をするようになっていました。自分も自宅にMacintoshを置いた途端、独立を決意しました。20代の後半、平日に一人夕焼けを眺めながら歩き、とてつもない自由を感じたことを覚えています。
--インターネットに触れ、その後のキャリアはどうなりましたか?

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自分と同じようにフリーランスでプロダクトデザインをしている仲間を見つけたいと思い、検索してみると、ヒットするウェブサイト数は10件程度しかありませんでした。その中にたった一つだけ、自分の姿も晒して自己紹介をしているウェブサイトがありました。母校(桑沢デザイン研究所)が一緒だったこともあり、早速会いに行くことにしました。
1998年の夏、彼から聞いた代々木の住所を訪れると、別の起業家たちの小さな事務所の一角を間借りしていました。彼と一緒に事業を立ち上げているという人物が外出先から慌ただしく戻って来ました。紺色のスーツにネクタイ、黒いアタッシュケース、汗をびっしょりかいた姿はデザイナーのそれではありません。
彼はホワイトボードを持ってくると、熱っぽく語り始めました。「フリーランスデザイナーなんてやめておいた方がいい。次々と出てくる若い才能にいつか追い越されてしまう」「これからはインターネットを使ったビジネスが成長する。廃業して我々と一緒にベンチャーを立ち上げないか」と畳み掛けてきました。
独立から3ヶ月程しか経たない頃だったので、かなり悩みましたが、最終的に一緒に仕事をする決断をしました。株式化する前のエレファントデザインという会社です。キーワードは「Community of Interest」、ビジネスモデルを「Design To Order」と呼び、構築したプラットフォームは「空想家電(後に空想生活と改称)」と名付けられました。
そこではユーザーから「こんなもの欲しい」という投稿を募り、賛同者によってコミュニティが形成され、最小ロットに達した商品企画はメーカーにオーダーされるという、従来の大量生産方式と比較すると、商品企画が不要に、在庫リスクもゼロになるという画期的なアイディアでした。
この頃を起点に私は、デザインというものの概念が格段に拡張し、経営コンサル的な思考やプレゼン手法を身につけていくことになりました。
--そこから再度フリーランスになった当時はどうでしたか?

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彼らとは3年半ほど一緒に過ごしましたが、ベンチャービジネスは色々と過酷なところも多く、2002年に再び独立してフリーランスになりました。当時は電機メーカー向けに将来ビジョンのコンセプト動画などを数多く制作しており、再独立後最初の仕事もそれでした。
コンセプト動画は、仲の良い慶應大学の学生にアルバイトで手伝ってもらっていたのですが、その学生の友人に私が学生のときに最も影響を受けた坂井直樹さんの息子がいました。坂井直樹さんは「コンセプター」を名乗った最初の人物で、80年代半ばから90年代初頭のバブル期を中心に斬新なコンセプトの商品を数多くプロデュースしていました。
動画が完成したことを坂井クンに伝えると、父親の坂井直樹さんがホームパーティを開催するから、そこに来て観せてほしいと言われました。当日、PowerBook G4とワインを1本持って、中目黒の自宅を訪れました。企業の経営者や芸能人が集う妖艶な会でした。坂井直樹さんは軽く動画に目をやると「久しぶりに優秀なクリエイターと出会った。今度ウチの会社に来てくれる?」と誘ってくれました。
後日、渋谷は南平台の株式会社ウォータースタジオを訪れ、以降、数多くのプロジェクトに参加させてもらいました。そして2年間程フリーランスで関わった頃、坂井さんに新会社を設立したい気持ちが芽生えた際、私が共同創業者に選ばれました。社名は株式会社ウォーターデザインスコープ(現:株式会社ウォーターデザイン)、ウォータースタジオの「ウォーター」と、私の会社の屋号「デザインスコープ」を合体させたものでした。
この頃を起点に私は、取締役兼クリエイティブディレクターとして、本格的に経営に携わるようになっていきました。
--坂井さんとの出会いから、現在の会社名に至るまでの経緯を教えてください

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著名人である坂井さんとの仕事は刺激的なことの連続でした。渋谷区代官山に設けた新会社のオープニングパーティには、当時、ソニー株式会社のCEOであった出井伸之さんや、玩具メーカーの株式会社タカラの社長であった佐藤慶太さんをはじめ、名だたる方々に来訪いただきました。
携わる業界は幅広く、「アイスクリームからクルマまで」という表現をしていましたが、食品、電機、自動車業界など、あらゆる製造業の企業の経営者と会話ができました。とはいえ、いずれも坂井さんの名前があってのお付き合いなので、とてつもない人脈拡張とコンセプト立案の機会を経験しつつ、常に私は「番頭さん」という位置づけを超えられないという側面もありました。
現在の「LONOF(ロノフ)」という社名を使い出したのは、2011年からのことです。再び独立をしたタイミングでベンチャーキャピタルにいる知人から誘いがあり、中国のスタートアップ「LONOF」へ参加する機会がありました。実際にはそのビジネスは上手く立ち上がらなかったのですが、その時に私が日本国内に登記した会社が「株式会社ロノフ・東京」でした。「もうコロコロとやることを変えたくない」という思いから、今も「株式会社ロノフデザイン」という名称で使い続けています。
これまで、行き当たりばったりで、予想外の展開ばかりの人生だったと反省をしていますが、ここに来てようやく「自分にしかない軸」が見えてきたような気がしています。
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